小日記

日々のちょっとしたこと

教会に行ってみた


近所の教会。


なにか辛いことがあったときに、人にそれを話すことがあまり得意じゃない。ていうか、苦手。好きじゃない。
慰めてもらうのは嫌いじゃないけれど、ぐいぐいとその辛いことに踏み込まれるのは嫌だ。
辛いことは話せばすっきりすると思ってる人が多いと思う。でも、わたしは話すとそのことを思い出しちゃうから(せっかく忘れて過ごしてたのに!)、好きじゃない。
辛そうなときは、くわしく詮索しないで「この人、いま、大変なんだなー。なんか辛そうだなー」くらいに思ってもらえるだけがいい。それがうれしい。ありがたいなと思う。そうしてくれる人のことが大好き。


週末、近所の教会でミサに参加してきた。

参加した理由は、9月にベトナムに旅行をしてきたときに、ハノイ大教会でたまたま参加したミサに感動したから。
そのとき見たのは、ステンドガラスからきれいな光が差し込む中、みんなで歌い、みんなで祈る光景。それが習慣としておこなわれているということに、平和で、純粋で、美しいと感じたのです。


ハノイ大教会の中。


あとこれまで、タイ、モロッコ、スリランカ、インドなど旅行するなかで、宗教施設や人々が祈りを捧げる様子を見て「信仰があるって、なんとなーくいいなあ」と思っていた。


スリランカの寺院。

日本で宗教というと「こわーい」「心が弱ってる」「あやしい」「オカルト」とかのイメージを持つ人もいて、あまりいい印象がない気がする。
たとえば「神との対話によってのみ救われる」なんて言われたら、ちょっと怖いし、ネガティブなイメージを持つ人がいるのは仕方ないかも。

そうじゃなくて、くしゃみをしたあとに「God bless you!」と言う――そんな感じで、信仰を持てたらいいなと思う。怖いとか、畏怖の念とかじゃなくって、もう少し身近な感じ。


お祈りに飽きた子ども。スリランカ


というわけで、ミサの何が良かったかというと「生きてると、つらいことや悲しいこと、そりゃみんなあるよねー」ってのを、踏み込まれずにただ共有してもらえてる感じがしたこと。
誰と共有してるのかはわからないけど。神様となのか、神父さんとなのか、共に祈っている人となのか……。
そして祈る、っていうのは前向きな行為だなーと思った。


黒田硫黄のマンガの好きなセリフを思い出した。

大人と話すのはいいな…… いろいろあったらいろいろあったんだって言ってくれるもの できもしないこと してくれようとしないもの
−茄子 ・残暑見舞い

冒頭にも書いたけど、辛いことを告げても、踏み込まれず、過度に慰められもせず、「いろいろあった」ことをただ知ってもらえるだけが、わたしは居心地が良い。だから、ミサのあの空気がわりと好きなのかもしれない。
それに、敬虔な気持ちになるのは悪い気分じゃなかった。

また時々行こうと思う。