小日記

日々のちょっとしたこと

他者を認めるとはどういうことか

昨年は「分かり合うってなに?」というのを考えるのがブームだったが(好きな映画とか小説とか - 小日記)、今は表題の件について考えるのがブームとなっている。

きっかけはこう。
いつものマダム(「そうくるか!」が足りない - 小日記)にわたしがグチを言っていたときのこと。
わたしが「本当は保守的なのに、多様性を認めてて柔軟で今っぽい考えを持ってるふうに振る舞う人ってどう思いますか? 表向きは、Dinksとかおひとりさまとか主夫とか女の大黒柱とかを認めてるふうなのに、心の奥では認めてなくて、自分は絶対にそうなりたくないって思ってる人っていますよね?」という話をした。

するとマダムは「本当は9割の人がそうなんじゃないの」と言うのだ。
「わたしもね、息子が結婚したとき、苗字は2人で話し合ってね、ジャンケンで決めたらいいじゃない、なんて口では言ったんだけど、絶対にうちの苗字にしたかったの」と話してくれた。

本当は9割……言われてみればそんな気もしてくる。
翻って自分。他者との違いを考えてみる。
住む場所、働き方、家族の有無等々。他人を自分に置き換えて考えてみると、受け止め方は下記の4段階に分けられると思う。

1.できるなら自分もそうなりたいし、憧れている、と感じる
2.自分はその選択をしなかったから「そうなりたい」と思うわけではないが、それもアリ、と思う
3.認めているけど、自分はそうなりたくはないかな……と思う
4.認めてないし、自分はそうなりたくない、と思う

ほとんどが2に当てはまりそう。
問題は3である。マダムに愚痴った内容も3に該当すると思う。
「自分はそうなりたくはない」と思ってるのって、「認めてる」ことになるんだろうか?

そんなことを考えてるときに、『だれもが愛しいチャンピオン』というスペインの映画を観た。

あらすじ
ハンディキャップを持つ選手たちによるバスケットボールチームと人生迷走中なコーチの出会いと絆を描き、スペインのアカデミー賞といわれるゴヤ賞で作品賞など3冠に輝いたドラマ。バスケットボールのプロリーグでコーチを務めるマルコは、短気な性格が災いして問題を起こし、チームを解雇されてしまう。知的障害者のバスケットボールチーム「アミーゴス」を指導することになった彼は、選手たちの自由すぎる言動に困惑しながらも、彼らの純粋さや情熱、豊かなユーモアに触れて一念発起。全国大会でまさかの快進撃を見せる。(映画.comより)

※ネタバレあり

マルコには長年付き合っている恋人がいる。年齢は40歳とかそれ以上。
マルコはハンディキャップを持っている選手たちと距離を縮め、仲間になっていく。
終盤、マルコの恋人が「子どもを作りましょう」とマルコに言う。
するとマルコは「(高齢出産だと)ハンディキャップを持った子が産まれてくる可能性が高い、あの子たちみたいに」と言って受け入れない。

このシーンで、映画を観ている人は、「チームのメンバーと仲良くなって仲間になったけど、自分の子どもは同じようになってほしくないんだ……ショック」って思う。
論点がズレるけど、もっと言えば「リスクが高いから子作りしない」と決めるのは安直だなぁとも思う。リスクの大小を客観的に見たうえで検討すべきかと。

で、ラストシーン。
マルコは結局「子作りしよう!」と彼女に伝える。「どんな子が産まれてきたとしても受け入れる」みたいなことを言って。
そのときにマルコは、チームのメンバーを本当の意味で認め、尊重するようになった。

で、何が言いたいかというと。
結局「3.認めているけど、自分はそうなりたくはないかな……と思う」ときって、本当の意味では認めてないんだと思う。

ただ、「自分はそうなりたくない」と思ってしまうのは仕方ないので、まずは理解に努め「頭では認めている(気持ち的には認められない)」というところから入ってもいいのかな、とは思う。
「本当は認めていないかもしれない」と自分を疑うことが大事かも。


なーんてね。